彼がこの小学校を守るようになってから、長い年月が経っていた。
なにしろ「みさきの小学校」は、みさきの町に一番最初に出来た学校だったのだから。
彼の外見は奇妙だった。
白くて丸い、つるんとした胴体から細長い手足がにょきっと出ている。
まん丸の大きな目。
それは”崇高”というよりは”ひょうきん”だった。
彼は年をとらない。そして彼はその姿を誰にも見せない。
「なんですかな、これは」
みさきの小学校の3年4組の担任教師が眉をひそめた。
彼は職員室でテストの採点をしている最中だった。
「なにがですか?」
となりに座っていた教師が顔を上げる。
「これですよ」
彼はながめていた答案用紙を示した。
「ほう……、これは……?」
「例の、岡本くるみの答案ですよ」
先日行われた国語のテストのものだった。
白紙のくるみのそれには、丸くてつるんとしたオバケのような絵が描かれていた。
守り神だ。
だが、この2人の教師がこれがなんであるかを知る由もない。
「岡本くるみ……、ですか……」
「そう、先日の事故で母親が亡くなった……ね」
彼はふうとため息をついた。
そして、ショックだった気持ちはわかるけど……、と思いつつも、赤ペンで答案用紙に書き込んだ。
”ふざけないで、マジメにやるんだよ”と。
しかし、くるみは、ふざけていたわけではなかった。
答案用紙に描いた絵は、守り神のことをわかってもらいたいという、くるみの思いだった。
守り神は、くるみの前に姿を現したのだ。あの瞬間に。
くるみの母親は結婚せずに、くるみを産んだ。
そして女手ひとつで育ててきた。
事故の時、くるみは母親の運転する自動車に一緒に乗っていた。
母親は生活に疲れていた。
酒を飲み、べろんべろんに酔っ払っていた。
ハンドルをきりそこなう。自動車は横転する。
その瞬間、くるみの目の前に白いぷよぷよしたものが現れた。
強く打ち付けられるはずだった身体は、それのお陰で守られ、ぷよぷよーんとはねかえった。
くるみは気を失った。やわらかいものに抱かれながら。
母親は即死だった。
もともと無口だったくるみは、この事故以来、誰とも話をしなくなった。
学校から帰ってくると、部屋に閉じこもっていることが多かった。
だが世話に来ている叔母は、くるみの部屋から時折話し声がするのを聞いた。
「くるみちゃん? 誰か来てるの?」
叔母が部屋をのぞくと、そこにはくるみしかいない。
床にぺったりと座っているくるみは振り向いて、左右に首を振るのだった。
その瞳に、楽しそうな色をたたえて。
「不思議な子よねえ……」
叔母は夫に言った。
「誰が?」
「くるみちゃんですよ。助手席に座っていたっていうのに、かすり傷ひとつ負わなかったなんて」
「余程、運が強いんだろう。不幸中の幸いだったじゃないか」
「ええ、それはもちろんそうなんだけど……、あの子、ヘンなのよ」
「ヘンって?」
「部屋から話し声がするの。でものぞくと誰もいないのよ」
「独り言だろう、さびしいんだよ」
「私には一言も口をきいてくれないのに」
「あの子は、ぼくたちが引き取ることになるんだろうね」
「ええ……、他に身寄りがいないもの」
叔母は釈然としなかった。
あの子が振り向いた顔。あの楽しそうな表情。
独り言が楽しい? あの子は気がおかしくなってしまったのかしら?
……いいえ、もしかしたら……。
「ママが帰ってきそうで、こわいわ」
くるみは自分の部屋にいた。
「お酒に酔って帰ってきて、くるみのせいでくろーしてるって、怒られるの」
『そんなこと言っちゃ、ダメだよ』
「だって……」
『くるみちゃんはママが好きだったんだろう?』
「ママはくるみのこと、キライだったもの」
『そんなことないよ、だってね……』
彼はくるみの耳元でささやいた。くるみの母親の最期の言葉を。
くるみはとても驚いた。そして少しずつ、その表情には笑みが浮かんだ。
「ホントに?」
彼はうなずいた。
「くるみもママが大好きだった」
母親が死んでから初めて、くるみの瞳に涙があふれた。
彼はくるみの頭をなでた。ひょろりとした手で。
くるみは涙をぽろぽろとこぼしながら、つぶやいた。
「守り神さん、ありがとう」
「今日でこの学校ともお別れね」
叔母はくるみの手をひいていた。
夕暮れの校庭だった。
くるみは叔母の家に引き取られることになったので、みさきの小学校を転校するのだ。
二人は校門を出た。
くるみが振り向くと、校門のところで守り神が手を振っていた。
くるみは手を振り返した。
「なにをしているの?」
叔母は振り向き、そして見た。
「くるみちゃん、守り神さんを知ってるの?」
くるみはびっくりして、叔母を見上げた。
まさか叔母が守り神を知っているとは。
叔母はふふっと笑った。
「そう、やっぱりそうだったのね」
守り神は姿を消していた。
二人はゆっくりと歩き始めた。
「叔母さんとくるみちゃんのママも、昔、みさきの小学校に通っていたの」
叔母とくるみの母親は年子の姉妹だった。
「ある日、二人で遅くまで学校に残っていたの。その日の朝、親に叱られてて、うちに帰りたくなくて。
下校時間を過ぎ、学校にはひとけがなくなって……、そして見たの」
守り神はうっかり二人の前に姿を現したのだという。
誰もいないと思って、油断したのだ。
「私たちと守り神さんはすっかり仲良くなったわ」
叔母は部屋で守り神と話していたのか、と聞いた。
くるみはこくんとうなずいた。
「そっか、くるみちゃんは守られていたのね」
だから、あの事故の時も助かったのね、と内心思う。
叔母の手をするりと抜けて、くるみは突然もときた道を走っていった。
「くるみちゃん!?」
叔母はくるみを追いかけた。
二人は、みさきの小学校まで戻ってきた。
さっきまでまばらにいた生徒達もいなくなり、校庭はがらんとしていた。
くるみはそばに落ちていた棒きれを拾ってしゃがみ、そのままそれで線を引きながら後ろ向きに下がっていった。
くるみは校庭中を使って、大きな絵を描いていた。
叔母はその様子をじっと見つめていた。
やっと最初と最後の線がつながった。
くるみは肩で息をしていた。上げた顔は上気していた。
「ちがうの」
くるみは叔母に言った。
「くるみは死ぬはずだった。本当はママが守り神さんに助けてもらうはずだった。でも、あの瞬間に……」
くるみは校庭中を使って描いた絵をパッと指さした。
「この守り神さんにママが、自分の代わりにくるみを助けてあげてって、頼んだの!!」
言い終えると、くるみはせきをきったように、泣き出した。
人に対し、かたく閉ざされていた心は解き放たれた。
まさか、そんなことだったとは……。
叔母はひざまずき、泣きじゃくるくるみをぎゅっと抱きしめた。
「くるみちゃん」
叔母はこの小さな体を守りたいと思った。
「しあわせになろうね」
校門を出て行く二人の後姿を、守り神は屋上からやさしく見守っていた。
彼はこれからも、みさきの小学校を守りつづけていくだろう。
夕日がかげった校庭に、守り神の大きな絵が静かに横たわっていた。
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